2012年4月28日土曜日

気仙沼 2

今年2回目の気仙沼出張。今回は一泊。直前まで一ノ関宿泊の予定ではあったが、キャンセルがなんとか出て、気仙沼プラザホテルに泊まった。朝食付きで7,500円なり。



一ノ関では、桜が満開で麗らかな春~という感じだったが、気仙沼はまだまだつぼみ。上の写真は一ノ関。駅から車で1分のところにある磐井川緑地周辺。桜の木が太く、高さもあるので見応えがあった。

一方、気仙沼は天気も下り坂だったせいもあって肌寒い陽気で、桜も五分咲きであった。東京はもう葉桜だというのに。

食事をしながら、現地の経済事情を地元の方に伺うと、思った通り、あまりよろしくないとのこと。理由は、

  • 高速道路無料化が3月末で終わってしまった
  • そもそも住んでいた人が戻ってこない
  • お店も仮店舗。契約切れたあとのことをそろそろ考えねば
  • 市としての復興のビジョンがない(というか根本原因は国に考えがないからだろう)

だそうだ。飲食店の経営者として客が来ないのではどうしようもないといったところだろう。

ただ、そもそも気仙沼ってどういう産業で成り立っているのか知らなかったので調べたところ、次のような調査報告があった。


「気仙沼市産業連関表(平成17年表)推計調査結果」および
「東日本大震災に伴う気仙沼市の経済的被害に関する推計調査結果」について

http://www.77bank.co.jp/pdf/newsrelease/11071302.pdf

七十七銀行が調査したもので、その中で、

  • 漁業、食料品生産業への依存度が極めて高い地域
  • 少なくともこの震災で気仙沼市の生産額は半分になってしまった
  • まずは中核となる漁業や食料品の生産拠点をもとに戻すことが必要

と述べている。やはりここは生産地域なのである。外から人が入ってお金を落としていく場所ではない。そうなると、生産をする人や場所があっという間に消えてしまったわけで、その損失は計り知れないものがある。

なお、すでに港湾周辺の環境は見た目では元に戻りつつあるが(実際、早朝に市場に行ったら船も入っていて水揚げもあったようだ)、加工場になるべき場所は瓦礫でいっぱいで何も進んでいない様子であった。

次回は、夏前に行ってみたい、そして1泊でなく2泊はしたいところである。



2012年4月18日水曜日

第14回長野オリンピック記念長野マラソン

昨年は東日本大震災や長野県北部地震の影響で大会が中止され、2年ぶりの開催となった。4回目のフル、2回目の長野マラソンである。新聞等によると、1万人を超えるエントリーがあり、最終的に8769人(男子7441人、女子1328人)が出走。7664人(男子6582人、女子1082人)が完走し、出走者、完走者とも過去最多を更新した。順位は3,886位。


前日は朝から雨。時折、大雨、強風となり、気温もぐっと下がった。そのせいではないのだが、関越新座料金所を通過する時に、ETCが認識されず、あやうく車を傷つけるところであった。もちろん、入る時に認識されていないので、ICを出るときも認識されず、係員が飛び出してくる始末。こんなこと初めての経験であった。

さて、大会の朝は5時半に実家を出発。今回は駐車場が須坂のオリオン機械という会社の駐車場となったため、高速道路を利用。意外にも15分程度で着いてしまう。会場までは約20分。7時過ぎには会場に到着した。

前日の天候を引きずってかこの日の朝は曇り空で空気も冷たかった。とはいえ、気温は10度前後、無風で絶好のマラソン日和。これはサブ4もいけるかなという思いでいざスタート。

結果を先に書いてしまうと、自己ベストとはなったがまたまたサブ4ならず。理由はいくつかあるが、一つは天候。スタートから3kmほど走ると空が急に明るくなり、春とは思えない日差しが。ちなみに、この日の最高気温は18.6度まであがったらしい。一昨年もかなりの気温だったが、無風な分それ以上にも感じた。そして、やはりというかシューズに十分慣れていなかった。30kmをすぎてから右足の足裏が痛くなり(というか固くなり)はじめた。また、最初から右足にはふくらはぎに不安があり、なかなか思い切ったことができなかったのも事実。でもすべて言い訳になっちゃうからなあ。

改めて思ったことは、やっぱり走る距離を増やさないとだめだということ。


記録を細かく見ていくと、実は前回とあまり変わらないことに気づいた。前回は初フルということで、当然のことながら残り10kmはバテバテだったのだが、今回もタイムの上ではほとんど変わりがない。ただ、前回のような悲壮感はなかったし、Finish 後もわりと普通に歩くことができた。前回は本当に足が棒になるという状況だったのだが。結局、頭からの司令のせいか。これも走り込みが不十分ということだろう。

さて、今回もQちゃんがスターターとして登場し、途中35kmあたりでハイタッチ。ただ、その後、岩野橋をわたっている途中でQちゃんを先頭とする一団が後ろから追いかけてきた。それほど早くもなかったので、いけるところまではいこうと思い、一団にくっついていった。1kmぐらいだろうか、Qちゃんの後ろを走ったわけである。すでに現役を退いてしばらく立っているが、走り方はやっぱりきれいであった。また、髪の毛もさらさらだということも発見であった。沿道からは「結婚おめでとう!」なんて声もかかり、一団の中では笑いもおきて、楽しかった。がしかし、1kmすぎるとさすがに足が前に進まなくなってしまった。う~ん、もしあのままこの集団についていったら、サブ4も夢ではなかったかもしれない。

今回のFinisher's Towel はブルー。Tシャツは紺色。前回はとにかく足が痛くて仕方がなかったが、今回は余裕で記念撮影。また、前回もそうであったが、ボランティアの学生諸君の礼儀正しさには本当に頭が下がる。「お疲れ様でした」の一言でうるうる来てしまった。

あとは、例のごとく、実家近くの天然温泉に入って、軽く食事をしてから帰った。

来年ももちろんチャレンジします!

2012年4月8日日曜日

南相馬

復興ハングアウトというプロジェクトの仕事で、南相馬市役所内の「南相馬災害FM」を訪問した。南相馬という場所は初めて。さらにラジオの本番をじかにみるのも初めて。

この日は朝8時半の新幹線でまずは仙台へ行き、ゆっくりお昼を食べて、その後関係者と合流して車で移動する予定であった。ところが、前日の爆弾低気圧の影響で、新幹線ものろのろ。結局1時間5分遅れで仙台に到着。急ぎレンタカーの手続きをして、集合場所にぎりぎり到着。その後も、仙台から山元町までの高速道路が閉鎖となり、国道6号線を走ることになった。

そういえば、昨年9月に仙台に来た時も関東を直撃した台風15号の後だったっけ。どうも東北に来るときは嵐と因縁深いのかもしれない。

さて、途中、相馬市の相馬港、原港、また、鹿島の海岸沿いに寄り道をしつつ、ほぼ予定通りに到着。相馬港や原港の周辺はまだまだ手つかずで、港に入れる状態ではなかった。鹿島の海岸線(写真、火力発電所の周辺)は流された家の基礎がむき出しとなっていて、かつてそこには多くの方が住んでいたのだろうが、今は人影はない。

そして、南相馬の市役所に到着。市役所の入口にあった碑。「野馬追」とはここの伝統行事のこと。


ちょっと早めに着いたので、街の中を散策する。がここにも人影はない。南相馬、人生初ということで、「闘う市長 被災地から見えたこの国の真実」という本を仙台までの新幹線の中で読んだ。この街、人口が激減しているとのこと。地震、津波という自然災害に加えて、原発被害も加わっている場所なので、問題はかなり複雑と言える(ここから10kmほど南はまだ立ち入りができないところ)。ちなみにこの本は、南相馬市長の桜井さんのインタビューをまとめたもの。震災直後の物資、情報のない状態でどうやりくりしてきたかの生の声が書かれている。現場力という言葉がとても印象に残る。


街にある唯一の喫茶店も今日はお休み。


市役所の前に「ゆめはっと」という市の文化会館があったので、そこでしばし休憩。
そして、今日の仕事場へ。ラジオ局は市役所の敷地内にある。

夕焼けはとてもきれいだった。


仕事を終え、建物の外にでると、当たり前だがすでに真っ暗。市役所ではまだ多くの人が働いているのだろう、明かりが煌々としていたのだが、周辺の暗さは半端無い。車でちょっと走ると、街灯さえない道が続く。車もまばら。なぜかわからないが、早くここから出たいという気持ちがあった(ただし、いろいろな理由でスピードは控えめにしていたが)。

帰りの新幹線の中、本の残りを読み終えた。南相馬という東北の小さな街の復興が実は今の日本を変える上で必要なことを全部見せてくれるのではと感じた次第。



コロナにかかって

この時間、 長野マラソン に出ていたはずだったのだが、コロナに罹患してしまい、自宅でライブ配信を見ながら、このブログを書いている。一週間の顛末を残す。 コロナに診断された方へ(かかりつけの医者の指示から) 発症後5日間、かつ解熱、症状軽快から24時間が経過するまでは外出を控える ...